TOP インタビュー 給料だけじゃない、社員が辞めない“見えない報酬”とは

給料だけじゃない、社員が辞めない“見えない報酬”とは

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「給料を上げた。待遇も改善した。それでも、なぜか人が定着しない……」。建設業界で多くの経営者が抱える、深刻な人材問題。その答えは、福利厚生や給与の中だけにあるものではないのかもしれない。

今回ご紹介するのは、創業から49年、土木事業を主に営む有限会社大田原工業。同社を一代で築いた会長が語る経営哲学は、「バイクの修理」や「トイレ掃除」といった、一見非効率に思える実践にあふれている。

しかし、その一つひとつの実践こそが、社員の心を掴み、人が辞めない強い組織を作り上げている。会社の未来を担う人材をいかに育て、事業を永続させるか。その普遍的なヒントがここにある。

取材企業

会社名: 有限会社大田原工業
設立: 1975年創業
事業内容: 土木工事、とび・土工工事、解体工事など
2025年「助太刀百名社 助太刀社員部門」ノミネート

https://suke-dachi.jp/hyakumeisha/


会長 大田原 甲太 氏
昭和50年に同社を創業。鉄骨工事業から土木事業へと舵を切り、一代で会社を成長させた。豊富な現場経験と先見の明で、今なお会社の屋台骨を支え続ける。

会社の品性は“トイレ”に表れる


「会社の姿勢や品性が一番表れる場所はどこか。私はトイレだと思っています」

大田原氏は、そう断言する。驚くべきことに、大田原氏は事務所のトイレ掃除を何十年もの間、毎日自ら続けていたという。

誰かに強制されたわけではない。誰かに「やれ」と指示するより、自分が毎日やり続けていれば、いつか誰かがその意味に気づいてくれると信じていた。

「お客様が来てトイレが汚かったら、『この会社はどんな生活をしているんだ』と思われてしまう。逆に綺麗だと、『この会社はきちんとしているな』と信頼につながる。そういう小さなことの積み重ねが大事なんです」

この姿勢は、創業時に実績も顧客もゼロだった頃の経験に根差している。地元の会社を回り、「お宅の前の側溝を掃除させてください」と無償で清掃を申し出た。まず自分たちの仕事ぶりを見てもらい、そこから小さな信頼を積み重ねていったのだ。

部下に対して「相手の立場に立って考えろ」と指示する前に、まずトップ自らが誰よりも相手の立場に立ち、誰よりも率先して汗をかく。その背中こそが、何よりも雄弁に語る教育となり、組織の文化を形作っていく。

自社のトイレは今、誰が掃除しているだろうか。その問いは、経営の根幹を突きつけているのかもしれない。

給与を2割上げても人は辞める。それでも社員がついてくる“見えない報酬”


「寂しい話ですが、今の時代、喜びを感じるのはお金なんです。より高い給料を提示する会社があれば、人は辞めていきますよ」

大田原氏は現実をそう語る。実際に同社でも、他社から給与アップを提示されて転職する社員がいるという。だからこそ、大田原工業では今年、全社員の給料を平均2割以上引き上げるという大胆な決断をした。

しかし、同社が本当に大切にしているのは、その先にある“見えない報酬”だ。

ある時、結婚して子どもができた社員が、趣味のバイクを売ろうかと悩んでいた。彼が乗っていたのは、手に入れた当初から大田原氏も知るほどの“ガタガタ”な一台。ライフステージの変化を機に、ついに手放すことを考えていたのだ。それを知った大田原氏は、彼にこう告げたという。

「ーー売るなら直さないが、お前が乗り続けるなら、俺が直してやる」

結局、大田原氏はそのバイクの大がかりな修復を、たった半日で、しかも無償で引き受けた。壊れて錆びつき、本来の形が失われていた部分を、設計図もないまま自らのイメージだけで再生していったのだ。針金で型を作り、金属を曲げ、溶接して、失われた部品を作り直す様子は、単なる修理というより、もはや「カスタム製作」と呼ぶべき仕事だった。

これは単なる社員サービスではない。「会社は、あなたの人生そのものを応援している」という強烈なメッセージだ。目先の給与や待遇を超えた、「この会社にいる意味」や「大切にされている実感」こそが、社員の心をしっかりとつなぎとめる強力なエンゲージメントとなっている。

「一緒にやろう」その一言が、組織の壁を壊す

強い組織には、規律と公平性が不可欠だ。大田原工業では、その考えが社内に深く浸透している。特に、近年増えている技能実習生への対応に、その姿勢が顕著に表れている。

「日本人社員の中にも、昔ながらの差別的なやり方をする人がいたため、厳重に注意したケースもあります。例えば、片付けや汚れる仕事はすべて技能実習生にやらせて、自分は見ているだけ、といったことです。『それではダメだ。一緒にやろうよ、率先して教えようよ』というのが我々のやり方なんです」

仕事ができるかできないか、日本人か外国人か、そんなことは関係ない。率先して動く姿を見せなければ、誰もついてはこない。

周りに対して敬意を欠く振る舞いを続ければ、チームの一員として仲間からの信頼を得ることは難しく、結果的に本人にとって働きづらい環境となってしまうだろう。

一方で、安易に会社を辞めた社員が「戻りたい」と言ってきても、決して受け入れない。その厳しさは、真面目に働き続けている他の社員たちを守るためでもある。「戻れる」という甘えを許さないことが、組織全体の健全性を保つことにつながる。

「会社は大きくするな」事業を永続させるための、逆説の真理

「会社を大きくするよりも、小さくする方が難しい」

これは、大田原氏が後継者である現社長に伝えている、経営の要諦だ。

「私たちのような中小企業は、むやみに人を増やしても、逆に経営が苦しくなる。大事なのは、今の社員、つまり家族を守るのに、どのくらいの規模が適正なのかを見極めることです。従業員をただ増やすのではなく、内容の充実した会社にしていくことが重要なんです」

売上や規模の拡大だけを追い求めるのではなく、質の良い工事を適正な価格で提供し、そこで得た利益を社員にきちんと還元する。そのサイクルを守り抜くことこそが、事業を永続させる最善の道だと信じている。

大田原工業の取り組みは、どれも時間や手間がかかり、非効率に見えるかもしれない。しかし、その根底に流れているのは、「自分がされて嬉しいことを、相手に行う」という、極めてシンプルで普遍的な哲学だ。

会社の未来を創るのは、血の通った人間である。社員一人ひとりの人生に、どれだけ真剣に向き合っているか。大田原工業の経営哲学は、私たちに静かに、しかし力強くそう問いかけている。